災害時対応 移動式・耐震型 現代版稲むらの火アークライト

そんな時の対応に、威力を発揮するのが
安政元年に襲った大津波、そのときに使われた稲むら(ススキや稲束を積み重ねたもの)に火を放ち、この火を目印に村人を誘導して、彼らを安全な場所に避難させました。

これを電気に変えて、現代版稲むらの火 アークライトが誕生しました。
和歌山県田辺市防災対策室に納入した
移動式耐震型 現代版稲むらの火アークライト

和歌山県情報交流センター「Big.U」に配備された
移動式耐震型 現代版稲むらの火アークライト(簡易型)

夜間のドクターヘリの離陸・発着に最適!

夜間のヘリコプター離陸・発着に最適!!
「目印灯として大きな効果」
移動式なので揺れに強い! はるか上空まで『光のラインが鮮明』
光で避難先へ誘導! 重症・重病患者を夜間に救出!

過去、三陸海岸沿いや秋田・青森(日本海中部地震)では、多くの方が
地震や津波の犠牲になりました。 そして今回の『宮城内陸地震』。
栗駒地区が孤立し、 取り残された人たちがヘリコプターで救助されました。

しかし、これが夜の地震・津波だったら、はたしてどうなっていたでしょう?

ヘリはよほどの条件がそろわなければ夜間の離発着をしません。

目視ができないので「障害物(電線など)接触」「墜落の恐れ」があるからです。

ドクターヘリであっても、照明設備の整った病院の屋上や安全の確認されている
場所(Hマーク表示)以外には飛びません。

だからこそ、この『耐震型アークライト』が有効なのです。

「上空までまっすぐ光の帯が見えるので、目的まで高高度で一直線に向かえ、
早く現場に到達できる。  光の傾斜方向で進入する方向や角度も目視で確認
でき、すんなりと降りれました。  非常に有効です!」 当社所在地の『夜間防災訓練」で、実際に機長からいただいた言葉です。

"備えよ常に" あらかじめ安全なヘリの進入方位や角度を「光の目印」で訓練をしていれば、山間ない陸地や町中の広場などへも夜間行動が可能になります。

一刻を争う負傷者救出に「自衛隊ヘリ」や「防災ヘリ」「ドクターヘリ」は欠かせないもの。夜間のピストン搬送も可能となります。

『耐震型アークライト』は、耐水性にも長年の経験で、改良されており雨天でも使用が可能です。

耐震型アークライトは、科学技術情報誌「月間アクタス」にて金沢大学広瀬幸雄教授(金沢学院大学知的戦略本部長・同大学教授兼金沢大学院自然科学研究所特認教授)から評価されています。

災害時の夜間にも、救命活動は必要です。

昨今は大地震の発生などをうけ、さまざまな防災関連商品が発売されています。
機器や防災グッズ、耐震技術や防災施策の普及促進もその一環です。

防災の対象は天災と人災(火災・爆発など)。 耐震土木工事・耐震建築・住宅防災グッズなどは、 建物の倒壊などを防ぐためですが、防災の究極の目的「人命を守る」観点から見ると、不十分なのが「避難誘導」への対応。
「家は壊れなかった。 裏山は崩れなかった。 でも怪我をした。 火や水が迫っている」
「今すぐ避難場所や救護場所へ逃げなければならない!」

そんな場合どんな防災機器が必要なのか? もし、それが真っ暗闇でならどうでしょう

夜間に災害発生。 停電。災害そのものからは間一髪助かった。
でも動転して避難場所の方向がわからない!
何とか避難場所には行けた。 そこには負傷者だらけ。
でも道路が使用不能で救急車が来ない・・!

負傷者の救助は朝まで待つのでしょうか?
真っ暗闇の中、避難先を見つけられるのでしょうか?

また耳の不自由な方に災害発生をどうしたら
知らせることができるのでしょうか?


そのためには、目視で危険を知らせ、強力な光で人々を避難誘導し、離発着の目印でヘリの
夜間出勤・負傷者移送を可能にする装置がいるのです。

つまりこれでは充分とは言えないのです。

そんな時の対応に、威力を発揮するのが「移動式耐震型アークライト」
現代版「稲むらの火」なのです


軽トラックで簡単に現場へ搬入出来ます。

  「稲むらの火』の由縁<日本の歴史的災害対策背景>

安政元年(1854)に広村(現在の広川町)を襲った大津波。浜口梧陵は被災した人々のために敢然と立ち上がりました。彼の活躍ぶりを描いた「稲むらの火」からは、当時の緊迫感がひしひしと伝わってきます。
梧陵は、広村で分家浜口七右衛門の長男として生まれ、12歳の時に本家の養子として銚子(現在の千葉県)に移り、家業であるヤマサ醤油の事業を継ぎました。
たまたま彼が広村に帰郷していたとき、突如大地震が発生し、紀伊半島一帯を大津波が襲いました。
彼は、稲むら(ススキや稲束を積み重ねたもの)に火を放ち、この火を目印に村人を誘導して、彼らを安全な場所に避難させました。しかし、津波により村には大きな爪あとが残りました。
このかわり果てた光景を目にした梧陵は、故郷の復興のために身を粉にして働き、被災者用の小屋の建設、農機具・漁業道具の配給をはじめ、各方面において復旧作業にあたりました。また、津波から村を守るべく長さ650m余り、高さ約5mの防波堤の築造にも取り組み、後の津波による被害を最小限に抑えました。
その他にも、私塾「耐久舎」の開設、又藩政、国政にも様々な活躍をし、その功績をたたえる碑が広川町内の各地に建立されています。
梧陵の精神は湯浅広川消防組合の防災の精神的支柱として受け継がれています。

和歌山県有田郡の湯浅町、広川町を管轄する消防本部のホームページより抜粋

現代版稲むらの火

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