まず、このタイトルを理解するには、稲むらが、そもそも何なのか、知らない方も多いと思う。

農家であれば、すぐ理解できると思うが、刈り取り後の稲を天日で干してから脱穀するが
その稲を束状に積み重ねて、その後脱穀する。また、脱穀後の藁(わら)を竹で作られた
はさ(稲架)にかけたものも稲むらと呼ぶ場合もある。

私の育った地域は、刈り取り、脱穀後は、はさにかけず、田んぼに積み重ねていたが。。。
通っていた中学校の周りは、田んぼでよくプロレスごっこをして遊んでいたので良く覚えている。 
クッションが良かった。

タイトルそのものをみると、脱穀前の稲(つまり米がついた状態)に火をつけたとしたら
その、惨さというか、収入源であるものに火をつけたとしたら、たまげた話である。

電気の無い時代で、津波を知らせる為に、この稲むらに火をつけて住民に知らせ、というよりも、
何だ!と思い(大切な脱穀前であれば、必死で止めようと思うが。。実際は、
調べてみないとわからない)住民が駆け寄った可能性もある。いずれにせよ非難させた。

この稲むらに火をつけた人物は、浜口梧陵で、実在していた。
彼は、村の長でもあった。

さて、稲むらの火の物語りを調べる前にもう一人重要な人物がいる。
小泉八雲(パトリック・ラフカディオ・ハーン) なんと、彼がこの稲むらの火の原作者である。 
生まれも育ちも日本では無い。

彼が生まれたのは、1850年6月27日ギリシャ王国、レフカダ島で生まれた。その後、
アイルランド、ダブリンで主に幼少時代を過ごした。

その頃、日本は、江戸時代、嘉永暦で、1853年、黒船が来た時代でもあった。

彼の家庭は複雑であった。

父親が軍医として外地に赴任している間に母が精神に病み故郷ギリシャに帰国、
その両親が離婚し、おそらく、パトリックは、どこかの施設か、祖母または、祖父と共に居たか、
親類宅にいたと思われるが、以後両親にはほとんど会うことなく、肉親に縁の薄い子供時代を送った。

フランス・イギリスで教育を受けた後、20歳で夢を求め、アメリカへ渡り、フランス語を活かし、
20代前半からジャーナリストとして頭角を顕し始め、文芸評論から事件報道まで広範な著述で好評を得ていた。

欧州の人間にとっては、数カ国語話せるのは、珍しくない。 生活の上で、必然的に言葉を覚える。
大陸であるが故、日本のような島国とは異なる。

私の知り合いは、アルゼンチン生まれであるが、5カ国語を使いこなす。

パトリックが日本に渡ってきたのは、40歳の時であった。来日後、アメリカの新聞社との契約を破棄し、
日本で英語教師として教鞭を執るようになり、41歳の時日本人と結婚した。
稲むらの火は、最初に書いたのはパトリック・ラフカディオ・ハーンであり、日本人では無い。 
1854年(嘉永7年・安政元年)の幕末期に、実際に南海沖で地震が発生し、広村が大津波に襲われた際、
浜口梧陵が稲のわらに火を放ち、暗闇で逃げ惑う村人を丘に誘導し、彼らの命を救ったという実話に基づくき、
これをラフカディオ・ハーンが明治時代に英語で小説化、それを基に地元の小学校教師が子供向けに翻訳、
再構成された。
しかしながら、65歳前後の人に聞いても、その内容(稲むらの火の物語)は知らなかった。 つまり、ほとんどの人が知らない。
稲むらの火アークライトを告知しようとしても、物語を知らないから、難しかった。 ところが、最近、つまり東日本大震災が発生し、人を救おうという流れからか、小学生の教科書に取り上げられるようになった。
いう